齋藤茂吉
齋藤茂吉が生活し名付けた「聴禽書屋」
齋藤茂吉が昭和21年1月30日から翌年11月3日まで1人住まいした二藤部家の元離れです。この名は、庭内の木立を鳴きわたる小鳥の声に因み、自ら命名しました。
食事等の世話は二藤部と同家の使用人、雑事一切の世話は門人板垣家子夫がしていました。
同施設と隣接して、大石田町立歴史民俗資料館があり大石田にかかわりのあった文人・墨客の作品や遺品等を展示しています。
(駅から徒歩約10分・自転車約5分)
斎藤茂吉と大石田
斎藤茂吉は、明治15年(1882)に現在の上山市で生まれた。医師である一方、「赤光」などの歌集を刊行し、アララギ派の中心として活躍していた茂吉は、昭和4年(1929)に初めて大石田を訪れている。この訪問の目的は、松尾芭蕉が大石田で巻いた「さみだれを」の歌仙を見ることだったという。茂吉は、この後も数回に渡り大石田を訪れている。
昭和21年(1946)1月、茂吉は疎開先の上山から大石田に居を移した。住まいとした二藤部家の離れを、野鳥の声が聞こえることから「聴禽書屋」と名付けている。聴禽書屋は最上川にも近く、芭蕉が滞在した高野一栄邸も近所にあったため、芭蕉の足跡を偲ぶには絶好の場所だったようである。ところが、同年3月になると茂吉は病に倒れた。全快まで数ヶ月を要したが、大石田の人々の手厚い看護もあり、夏には創作活動を再開することができたのである。
回復してからの茂吉は、芭蕉の足跡を辿るため、大石田町内や尾花沢、銀山、山寺、出羽三山などへ出掛け、数々の歌を詠んだ。特に茂吉が好んだのは、大石田虹ヶ丘から眺める風景だったという。山頂からは、最上川の雄大な流れを見下ろすことができる。
最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片
この句は、虹ヶ丘山頂の歌碑に刻まれている。また、釈迦涅槃像があることで知られる乗船寺には、
最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも
の歌碑があるなど、大石田町内のあちこちに茂吉の足跡が残る。そこからは、茂吉が大石田を愛し、四季のうつろいを折々に歌に詠んでいたことがうかがえる。
関連場所 大石田町立歴史民族資料館/聴禽書屋 大石田町大字大石田乙37-6 TEL 0237-35-3440