最上川
大石田の最上川や自然に魅せられ 大石田の温かい人柄に魅せられ
最上川の
上空にして
残れるは
いまだ美しき
虹の断片
歌人 齋藤茂吉
俳聖松尾芭蕉が元禄2年(1689)の来町をはじめ、明治以降でも近代文学の俳聖正岡子規、歌人齋藤茂吉、洋画家金山平三、日本画家小松均といった著名な文人・墨客の来町があった。大石田の自然をこよなく愛し、町民の温かい人柄に魅了され多くの文人墨客が長く滞在し、大石田に数々の作品を残した。
また、歌人齋藤茂吉が、大石田に在住したときに歌った「最上川の上空にして残れるはいまだ美しき虹の断片」という作品に、作曲家古関裕而が作曲し大石田町町民歌としている。
都市計画された大石田
現在の大石田の町並みに整備されたのは、最上義光の時代に行われたとされているが、義光は、それまであった町並みを、最上川の最大河岸(川港、船着場)として全面的に整え、屋敷を区画して河岸関係者を集住させた、といわれています。その様子を描いた「大石田河岸絵図」(町指定有形文化財)が、当時をうかがわせる資料となっています。
復元された特殊堤防
洪水から町の財産を守るため昭和40年から14年の歳月をかけ、左右岸合せて約2,100mの特殊堤防が整備されました。
現在では、剥き出しのコンクリート特殊堤防に景観整備で最上川に映える白壁の塀蔵を再現し、舟運華やかなころの面影をしのばせております。

川船の減少と川船役所の設置
大石田船は、290年ほど前の元禄末年には約300艘ほどありましたが、その60年あまりの間に享保の改革による川船制度の変更等により宝暦11年には、120艘と180艘も減少し、川船総数が半分以下となりその後も減少し続けたので、最上川の輸送秩序の維持が困難になりました。また川船差配をめぐって混乱が絶えず、既存の川船差配役制では限界に達したため、幕府は、寛政4年(1792)に大石田に川船役所を設置し、円滑な川船輸送と統制にあたりました。
川船役所の業務は、円滑に最上川舟運ができるように川船統制を行い、川船関係の税金を徴収することにありました。

- ひらた舟
- 元禄時代(1703)に約300隻ありました。長さ18m~24m幅約1.8m~2.7mあり、米の積載量は200~350俵でした。

- 小鵜飼舟
- 大石田では川船役所が廃止された明治年(1872)後に使われました。長さ約15m~16m、幅約1.8m~mで小回りがよい船です。
最上川舟運がもたらしたもの
最上川の川船を利用して人や物質を運搬することは、部分的に古代よりあったが、最上川舟運が大規模に行われるようになったのは江戸時代に入ってからである。
慶長6年57万石の大名となった最上義光は、山形から庄内まで領有し、最上川舟運の整備を図る必要があった。義光は最上川三難所(現:村山市)の開削、大石田と船町を河岸として設置した。その際、土生田から大石田に至る道路を整備し、物資の集散地としての機能、「村山郡の表玄関」としての役割を大石田に期待した。
寛文12年(1672)西廻り・東廻り航路を開いた人物としても知られる河村瑞賢が、村山地方の幕府領の年貢米を江戸回送するためのルート調査をする為、来町。その結果大石田を基点とした「西回り航路」の開発により、幕府領の年貢米輸送の機軸として大石田河岸が位置づけられ、商人荷物の増大と相まって繁栄する事となる。元禄2年(1689)に松尾芭蕉が来町したが、大石田がまさに大いに賑わっていた時期にあたる。
舟運は近接する尾花沢付近から穀物などを集め、紅花・青荢・蝋などが山形方面から大石田まで陸送され、上方へ送られた。舟運は明治以降鉄道開通まで行われ、上方からの商品もそれまで移入された。
また、上方との交易により、雛人形も大石田町にもたらされ、現在「大石田ひなまつり」として寺や旧家で展示される。見物の人に漬物、抹茶、甘酒が振舞われ、家族や見知らぬ観光客と一緒に雛飾りを楽しむという光景もみられる。
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